痛みはやがて感じなくなった。
何も感じなければさほど辛くはない。
失うことに比べたら痛みなど雨に打たれるのと一緒だ。
でも傘を差してくれた人がいた。その時痛みに気付いてしまった。
secret
「リカさん、でいいんですよね?」
そう、名前を偽っていた。だって怖かった。
きっと彼だって偽ってる。
「はい、シュウさんも名前そのままなんですよね」
「僕は名前そのまま使っちゃってました、周りにリカって名前の人いなかったんで新鮮ですね」
チク…
何かが刺さる。でも今更正直になんて言えない。
既婚者だという事も隠していた。
「シュウさんて名前も周りにいませんでしたよ。シュウさんて気遣ってくださる人ですね!」
「そうですかね、仲間内ではもうちょっと気を遣え!なんてよく言われますけどね」
返信が早い。
鼓動が早くなっている、彼は支度の途中だろうか。
「すいません、仕事に行くんでまた後でメールしますね、リカさんも仕事かな?頑張って!」
「はい、行ってらっしゃい!気を付けてね~」
私は気遣いが足りないのだろうか。夫には労いの言葉一つもかけてもらったことがない。
夫とは友人の紹介で知り合った。
当時の私はまだ20代後半にも拘らず、男性と付き合ったことがなかった。
だから友人も見かねて独身男性を見繕ってくれたのだろう。
最初は寡黙な人だなと思っていた。特に面白い事をいう訳でもなく、趣味がある訳でもない。
しいて言えばゲームくらいだろうか。
長男も元気な頃はゲームが大好きで、私も一緒に良くやった。
正直私は夫より上手いと思っていたので、一度負かした時に異常なほど怒り、子供が引くほどだったので二度と一緒にやらなくなった。
結婚して次々と分かってしまう事実。
夫と体を重ねた時も気持ちが悪かっただけ。
(自分で選んだんだから)
最初はそう言い聞かせていた。
結局子供ができ、そこに逃げ込むことが出来るようになった。
(私は逃げ場を作るために子供を作ったの?)
いや違う、あの時夫に押さえつけられなければ、子供は作っていなかったかもしれない。
でも私は子供を愛している。
結婚した後、紹介してくれた友人に相談したことがあった。
謝って欲しい訳じゃない。でも謝られた、違うよ、私は相談に乗ってほしかったの。
そこから友人とも疎遠になってしまった。
子供と手を繋ぎ、公園を散歩しながら過去を思い出す。
夕方にも関わらず沢山の人がいる、中には恋人同士だろうか、笑顔で話している。
つい思う。あぁ、私にはあんな時間がなかったんだ。
「ママ?しゅわりたい」
「そうだね、ちょっと休もうか」
息子を抱っこしながら夕暮れを見つめる。
(なんて綺麗な夕日なんだろう、まだこんな感じ方が出来たんだ)
何時ぶりだろうか、下ばかり見ていたような気がする。
detour
息子の迎えの後に歩きすぎたようだ、すっかり寝こけている。
(早く夕飯を作らないと)
玄関を開けると何かいい匂いがした。
義母が夕飯を作っている?滅多なことじゃ仕事をしないのに。
「ただ今帰りました。お義母さんすいません作らせちゃって」
「いいのよ、たまに私がやらないと腕も鈍るしね」
良かった怒ってない。
「あんたの作る料理は息子の体を考えてないから、あんな食事ばっかり毎日続いたら死ぬよ?うちの子殺す気?」
その瞬間、何かが弾けた音がした。
嫁いでからというもの、子供が好きなもの、野菜も多く取れるようにと色々考えて作っていた。
今までも嫌味を散々言われてきたが、「殺す気?」まで言われたことがない。
「すいません、これでも頑張って作っているんです」
自然と拳を握る
「あら、なんなのその言い方。今日は反抗的ね、何その目は?」
無意識だった。
「うるさい!」
気付くと家を出て走っていた。
何処に行く当てもない、実家に行っても母親は話を聞いてくれるか分からない。
息が上がり、我に返った時、日はすっかり暮れていた。
足が痛い、何故か靴を持ったまま裸足で走っていた。
「ハ、ハ、ハ、私何やってんの、生きている意味なんてない」
プルルルル、プルルルル
携帯が鳴る、ポケットに入れたままだったことに気付く。開くと夫の番号、それを見ると同時に寒気がした。
「こんなもの要らない!」
投げつけようとした瞬間、彼の存在がよぎった。
(あっ、)
そして息子の笑顔が頭に浮かぶ。
(私はどうしたらいいの…?何が正解なの)
涙が止まらない、もう帰りたくない。
辛さがカナの心を引き裂き、締め付ける。
At that time
「お疲れ様でーす!とりあえずこんなもんで先に上がりますよ!」
(遅くなったな、リカさんどうしてるだろう)
シュウはようやく大きな仕事を任されるようになり、部下もついていた。
以前の状況ならもっとメールも出来ただろうが、昼間は中々時間が取れない。
こんな状況なので時間が取れず、前の彼女にもフラれてしまった。
「別れて下さい、もうやめにしよ?」
「なんで?最近あまり時間作れないのは謝るよ、もう少しすれば今の仕事も任せられるようになるからさ」
「もういいの、待つのって結構辛いんだなって思っちゃった。きっと私の我が儘だよ、シュウ君のせいじゃない」
「もう気持ちはないってこと?」
「好きだったよ、今も好き。でも待てないの、ホントにごめん、ごめんね」
彼女は泣きながら謝っていた。
彼女とは仕事の営業先で知り合い、何度か仕事のやり取りをする中で食事に行くようになり、告った時も笑顔で喜んでくれた。
僕といると楽しいと言ってくれた人。
だけど仕事が忙しくなり、会う時間がほとんどなくなると、たまに会う彼女には笑顔が少なくなっていた。
仕事はきついが、やりがいがある。
フラれた時はかなり落ち込んだ、本気で好きになれた大事な人、だった。
でも気持ちだけではどうにもならないのだと、その時理解した。
シュウは割と郊外に住んでいるが、駅から遠いので車での通勤をしている。
夜運転していると、未だに彼女との事を思い出してしまう。
もうどうしようもない、時間が解決してくれる。そう言い聞かせ夕飯を買って帰る。
アパートに帰っても一人でいると思い出す。だからサイトに登録してみた。
話し相手が出来たら違うのかな。そんな軽い気持ちで。
「お疲れ様です。今日はどうしてました?僕は今やっと仕事終わりです」
メールを送った後シャワーを浴び、30分程してから夕飯にありつく。
(あれ?返事来ないな)
もう終わったのだろうか。メールも殆どしないうちに嫌われたのかと心配になる。
(こんなに弱かったか?)
仕方ない、ビールでも飲んでさっさと寝よう。明日またメールしてみよう。
返してくれるかもしれない。
いつの間にか時計は一時を回っていた。